現在カピラ城と比定されているインド領のピプラワとネパール領のテラウラコットの遺跡はどちらも祇園精舎から東へ約百三十キロメートルの地点にあります。ピプラワとテラウラコットの距離はほぼ南北二十一キロメートルです。
大唐西域記や法顕伝の記述ではお釈迦様が出家まで過ごされたのはピプラワかテラウラコットかを確定できませんが、いづれにしてもカピラ城は、ヒマラヤ山脈の西部、八千メートル級のアンナプルナ連峰を北に見る、タライ盆地にありました。お釈迦様は毎日仰ぎ見て暮らしていたと想像されます。現在の地図ではインドとネパールの国境地帯に広がる標高約百メートル~三百メートルのタライ盆地でヒマラヤ山脈の麓までの地域にありました。タライ盆地はヒマラヤの雪解け水をたたえる川がいくつも流れ、今でも裕福な土地柄です。お米と麦の農家が多く、至る所にマンゴーの木が茂っています。現在はインド人とネパール人の混血の民族が多く住む地域です。
釈迦族は由緒正しい優秀な民族でした。アーリア人の血を引くシャーキャ国はいくつかの釈迦族の国が集まった共同体で、統治も輪番制の共和国であったとも言われています。よって、それぞれの国が城壁を持った城を持っていたと思えば、釈迦族の国がピプラワや、テラウラコットなどいくつかあったとしても、不思議ではありません。
インド側のカピラ城跡と言われるピプラワには城壁の跡や宮殿の跡は確認されていませんが、直径二十メートル程のレンガで出来た大ストューパ(仏舎利塔)やお坊さんたちの修行、勉学、生活の場である僧院跡があります。この地がカピラ城の跡である説の根拠は、仏舎利と多数の舎利容器、その舎利容器や箱などを封印するときに利用されたシーリング(土で出来た円形のシール)が発掘され、書かれた文言によります。このストューパからは、一八九八年に六個の舎利容器と舎利が発見されました。コルカタのインド博物館の廊下に展示してありますが、長持のような石棺に収められていました。その内一つが水晶の舎利容器(コルカタのインド博物館収納)です。別の容器のふたには『これは釈迦族の仏・世尊の遺骨の容器であって、親族が奉納せるもの』と記されています。この地から南へ一キロメートルの所にガンワリヤ遺跡には一般住居跡のような大きな建築物跡や僧院が今も残っており城跡ではないかという説もあります。
ネパール領のテラウラコットの遺跡には周囲一・五キロメートルの東西南北の城門跡を持つ城跡があります。城内には宮殿跡、ため池、寺院跡があり、その郊外には双子ストューパ、愛馬・カンタカの舎利塔跡。八キロメートル南にお釈迦様が成道後に帰城され、多くの釈迦族の人々を弟子にされた説法の地・クダン。テラウラコットの東北五キロメートルには釈迦族滅亡の地と言われるサグラハワの池(東西約三百メートル、南北六十六メートル)、 仏舎利塔と寺院跡は、池の西岸と南岸にあります。サグラハワを夕刻に訪ねると、湖面に映える赤い夕陽に往時を忍ぶことが出来ます。
㈱トラベルサライ 中村 義博